異なる声 (6)

女性が関係性を重視するというのは、いろんな人が述べていることである。

例えば、精神科医斉藤環は、男女の差異について、男性は所有から、女性は関係性から物事を把握していったり、進めていくと言っている。

しかし、残念ながら、たいていこのような議論をするひとは、この差異から議論を発展させ、いろんな事象をさばいていくことに関心があるように思う。つまり、前提がアプリオリとなっている。アプリオリとなれば、批判が寄せられる。男性は所有することを、女性は関係性を重視することを、所与のものとして持っていると見なされる。そうすると、それは、本質主義的議論であると痛罵されることになるのである。

女性は関係性を重視するという想定にそれは本質主義にすり替わる恐れがあるとして、その想定を否定したひとに上野千鶴子がいる。彼女は自分の立ち位置を、「ケアの社会学」(太田出版、2011年)のなかでギリガンを評価する際に明らかにした(ちなみに既に2002年にギリガン評価を行っている)。

上野のギリガンの理解は以下のようなものである。

「ギリガンによれば、ケア(配慮)とは、相互依存、配慮関心、義務と責任の概念を複合的に含む道徳的基準であり、権利の倫理のような首尾一貫性を欠くが、状況依存的であることでかえって優位にあるような、主として女性が発達させてきた道徳性をさす。・・・・・・だが、それはすでに男性によって評価を与えられた「女らしさ」の特性を評価することで、ジェンダー本質主義――生物学的本質主義でないにしても、文化本質主義的な――を招き、性差の固定に寄与するという効果があった。・・・・・・この本(ギリガンの本、著者注)の刊行の時期が、レーガン政権下のバックラッシュのさなかであり、フェミニズムの中から生まれた「家庭と女らしさへの退却」が、保守派の読者によって歓迎されたという事情がある。」(50頁)

彼女が着眼したのは、「男性によって評価を与えられた「女らしさ」の特性を評価」することであった。その着眼は、「評価」が本質主義につながり、性差が固定化され、その固定により、女性が関係性のなかに閉じ込められるという危惧へと着地する。上野の心配はもっともなことである。

しかし、そのような危惧があるからといって、女性が関係性を重視する傾向にある、という想定を否定するのは間違っているような気がする。確かに、上野が言うように、女性の関係性重視が女性に不利に働いてきたかもしれない。ひとのことに心を砕いて、自分を抑制することがあったかもしれない。だからといって、女性が関係性を重視するという想定までをも否定していいのだろうか。女性が関係性を重視することが、女性に有利に働くにせよ不利に働くにせよ、そのような想定はあり得べき想定として受け入れるべきではなかろうか。はなから否定してばかりいては、何か大切なものも一緒に流してしまうのではないか。

と、思いながら、ギリガンを読み進めているのである。ギリガンが、インタビューのなかから聞き取った女性の声は、女性の声を男性の声の枠組みの中でしか聞き取れなかった私たちへの批判となる。上野のギリガン批判への批判をこう書き換えてみよう。女性の声は、男性の声を唯一の声として聞くように育てられてきた私たちに、男性の声という権力を支えるのものとして聞いてきた私たちに、「異なる声」があることを教えてくれる。どうして、この「異なる声」を再び封印しなければならないのだろうか。