結婚しなくてもいい (1)

2011年12月17日の朝日新聞夕刊は、昨年放送されたドラマを回顧している。それによれば、昨年のドラマは「絆を問う再生の物語」に集約出来るという。記事いわく、「震災以来、「絆」という言葉がどれほど語られたか。各局が心血を注ぐ震災ドキュメンタリーに限らない。ドラマでも、絆の最小単位である家族が関心を集めたことはうなずける。」

「最小単位である家族が関心を集めた」という指摘には大きく賛成する。しかし、この家族への関心を「絆」に結びつけるのには納得いかない。震災は、確かに被災地の家族に影響を与えた。死別、別居と、被災地の家族はこれまでにない経験を生き抜いていかなければならない。その過程で、被災地の人々のみでなく日本の多くの人々が、家族について認識を新たにすることは多々あることだろうと思う。しかし、その認識は「絆」のみで説明できるものではない。精神的なことだけで片付く問題ではない。今住む住居ついて、生活を成立させるに必要な経済的活動について、家族の健康について、子供の教育についてなど、様々な観点から、家族は捉え直されているはずだからだ。「絆」のみを論点化するのは片手落ちというものだろう。

昨年のドラマは「絆」「再生」をめぐるものではない。昨年のドラマが、家族を扱ったのは、もっと別の理由による。震災が起こったからといって、震災がただちに人々の精神活動に影響を与えるわけではない。かならずしや、タイムラグがあるはずだ。私たちは数年後の精神活動の有り様を見据える必要があるのであって、震災直後のドラマにその影響をみるのは拙速としかいいようがない。

では、昨年のドラマはどうして「家族」を中心に据えたのだろうか。答えは簡単である。家族が変容しているのであり、ドラマはその変容の変奏なのである。

社会学者にして観光学者でもある妙木忍というひとがいる。彼女は2009年「女性同士の争いはなぜ起こるのか――主婦論争の誕生と終焉」(青土社)という本を上梓した。日本には、大正時代から、主婦をめぐる論争があり、妙木はその論争の論点の変化を丁寧に記述している。詳しくは同書を読んでいただきたい。ここで問題にしたいのは、妙木が挙げている最後の論争である。この最後の論争は、酒井順子の「負け犬の遠吠え」(講談社、2003年)がもたらした、いや「負け犬の遠吠え」がまとめ上げた、2000年当時の人々の結婚観を巡って起きたものだ。

妙木によると、酒井順子が見据えたのは、女性は結婚すべきなのか、結婚しなくてもいいのか、という選択肢に人々が直面しているという事実だった。専業主婦になるかならないか、というのはもはや個人レベルの趣味として片付けられていて、問題は結婚すべきかどうかに移行してしまったというのである。社会通念としての「家族」は、結婚して成立するものだから、本論争を「家族」を形成すべきか否かというレベルで考えることもできるだろう。

妙木は、本論争を最後の論争として扱った。しかし、妙木も拙速にすぎた。変化というのは止まらないという性格をもつことを失念していたのである。本論争の次に、また変化が起きることを予想していなかったのだ。ところが、その変化が、去年一挙に問題化された、というのが私の考えである。

変化の兆候はすでに2003年頃から表れていた。いや正確には、1985年頃というべきか。田辺聖子の「ジョゼと虎と魚たち」(角川文庫)が多分、変化の兆しを捉えている。と思う。というのも、その本は読んでいないからだ。原作から20年経過した、2003年、「ジョゼと虎と魚たち」は映画化された。私は、このタイムラグに注視したい。そう、機は熟したのである。

ジョゼと虎と魚たち」は、障碍者池脇千鶴と大学生の妻夫木聡との恋愛を活写したものだ。池脇も妻夫木も恋愛に関しては、ちっともウエットじゃなくて、極めてドライである。でも、そこは恋愛映画。見る者に、二人は結婚するのかなあ、と思わせるストーリー仕立てになっている。

ところがである。映画の最後になって、二人はあっさり別れてしまうのである。一応、理由らしきものは付け加えられている。池脇が障碍者であることから妻夫木が逃げてしまったと。でも、この理由はとってつけたように、映画の最後に妻夫木の心の声として表現されるだけであって、別れる理由としては説得力がない。現に、妻夫木は早速元カノとよりを戻すし、池脇は別れた後も後腐れ無く車いすで颯爽と街の中に入っていく。二人とも関心は次へと移っているのである。

映画は障碍者を恋人とした大学生の物語である。障碍者を親に紹介するかどうかで迷う大学生の物語である。結婚するかしないか、もっと悩んでもいいだろうと思う。酒井順子が感知した結婚という選択肢を下敷きにして見れば。が、映画はそういう方向を全然向いていない。二人にとって、恋愛を楽しんでも、結婚はしなくてもいいのである。結婚すべきか否かという選択肢自体がまるで消滅したかのようである。

結婚しなくてもいい。結婚しなくても、互いに行き交いは出来るし、心の交流だって出来る。どうして、結婚しなくてはならないのか。結婚しなくてもいいのではないか。

つまり、結婚は人生の選択肢としては存在しなくなりつつあるのである。酒井順子がすくい上げた論点は無くなった。結婚しなくてもやっていけるし、願えば、家族だって結婚なしでもつことが出来る。昨年のドラマは、このことだけを言ってきたのである。