結婚しなくてもいい (2)

結婚しなくてもいい。まるで、人々は結婚という社会制度から解放されて、何か別の可能性へと開かれつつあるようである。そして、敢えて言語化するとすれば、その可能性のひとつが、血縁を下敷きとしない家族を想像していくことだったと言える。

角田光代が「八日目の蝉」(中央公論新社)を書いたのが2007年。それから4年後の昨年、「八日目の蝉」がドラマ化(NHK)され、映画化もされた。

本作品は読者に微妙な罪悪感を植え付ける。女主人公は妻帯者の男と不倫をし、子供を身ごもる。面倒を抱えたくない男は、結婚できるまではどうか子供を諦めてくれといって、嫌がる女に中絶させる。物語はここから始まる。たまたま、同時期にその男の妻も妊娠し、こちらは制度上正当化できることなので、出産する。で、じっとしていられないのが女だ。自分が欲しかったものを他人が持っているのであれば、その他人のものを持ちたいと願うのは当然のことだからだ。ただ、女の場合は違った。普通は、願うことだけで終わるのだが、女はその願いを実現してしまったのである。つまり、赤ちゃんを誘拐した。

誘拐後、女は誰からも悟られないように、赤ちゃんを育てていく。女が赤ちゃんに注ぐ愛情は、読んでいて感動せざるを得ないほどに、深くて暖かい。私にもかつてこういうことが起きたのだろうか、と覚えていない記憶を呼び起こさせるようなほど強い感情だ。血が繋がっていなくても、これほどの愛情を持つことができるのかと、読者は感嘆せざるを得ないし、またそういう女に一度でいいからなってみたいと思う。誘拐犯に読者を同一化させるのが、本書の特徴である。

女にとって結婚はどうでもいいことである。彼女の関心は、ただ、赤ちゃんと過ごすことだけだ。子育てが生きることと同調している。その後、偶然の出来事から、女は逮捕され、赤ちゃんは親に引き取られるのだが、だからといって、女が赤ちゃんと過ごした4年間が否定されるわけではない。思い出として封印されるのでもない。そうではなく、その4年間はその後の人生とともにある、いつまでも現在形で存在する、フロイトがいうところの無意識の位相と同じ場を占めるのである。

読者は、読みながら、結婚のことは全く忘れ去り、ただこの「親子」が捕まらずに生きていければと願う。その反社会的願いは、血縁がなくても家族を形成できること、これまでは理論的には分かっていたことだがそれでも実感としては掴みどころのないことを、初めて納得のいくかたちで認識したことの喜びの置換である。

結婚してもしなくてもいい。結婚はもはや人々の心を悩ませる問題ではない。関心は、家族をもてるか否かに移行しているのである。となれば、子を産む女の身体や家族の形態が焦点化されるのは、もっともなことだろう。この問題を取り上げたのが、これまた昨年話題をさらった、フジテレビ制作の「それでも、生きていく」である。