異なる声 (7)

道徳問題を扱う際に、男性は普遍的な規則を参照するが、女性は他の人との関係性を重視するというのがギリガンが観察から得た知見であった。こう書くと、それは男女の本質主義に繋がるという、前回紹介した上野千鶴子がもつ批判に曝されることになるかもしれないけれど、この論考では、そのような批判をするもう少し前に遡ってみたいと思う。つまり、本質主義という一辺倒の批判をする前に、今現在男女の道徳問題判断の方法が違うのであるから、この違いを検討することで、別の地点に着地できるのではないかと考えるのである。

道徳問題を解決する時の男女の差異を考えてみると、ひとつ疑問が出てくる。男性はあくまでも法に照らして、個で問題を解決しようとする。他の人がどう考えているかとかはあまり考慮しない。冷徹なのである。ところが、女性は関係性を重視し、他の人のことを考えて結論を出すため、個にあまり重きを置いていないように思われる。「あの人のことを考えるとこうは出来ない」などと言って、心乱れる。かように、個をめぐる考え方、言い換えれば、人と繋がるかどうか、という点で男女は思いきり異なるのである。

何故、私が個から問題を提起しようとしているかというと、発達心理学では、これまで個の確立が重要視されてきたからで、ギリガンが指摘するように、それは男性に傾いた見方ではないかと思うのである。というか、その見方では女性は不利な立場に置かれてしまう。それでいいのだろうか。

男性の発達心理学者コールバーグによる「心の発達の規範」がギリガンによって紹介されているので、それをまとめてみよう。

コールバーグは心の発達を、道徳問題をいかに解決していくかという設定のもとに、三段階に分けている。最初の段階は前慣習的と呼ばれる。この段階では、道徳問題が個人の欲望や必要に応じて構成され、判断は結局のところ自己中心的となる。個人に利するように問題構成するのだから身勝手な判断がでるのは当然のことである。次の第二段階(慣習的)になると、この自己中心的な判断は却下される。何故なら、関係性、集団、コミュニティー、社会を形成する規範や価値観が判断の基準とされるからである。社会性を身につけるのである。ここで終わりかと思いきやそうではない。個人は、さらに第三段階(ポスト慣習的)に入る。慣習は完全ではない。慣習には瑕疵があるのであり、この段階おいて個人はそれを認識し、さらには、その瑕疵を超える普遍的な法に照らして判断を下すというのである。

コールバーグの理論を図式化すると、個人から出発し、個人対慣習、個人対普遍的法というように、個が一貫して判断基準の要となっている。最高段階に達すると、自分の欲望や他の人への配慮や地域の靱帯となっている慣習などは普遍的法の下に置かれ、顧みられることはない。強靱な個の確立が心の発達の確たる目標として据えられている。

コールバーグの理論が普遍化されると、女性の心の発達は未熟なものとなってしまう。というのも、女性による道徳問題の構成は、他の人との関係性のなかでその人に対してどう配慮するのか、その人にどう責任を持つのか、という設定のもとで行われるからだ。

だからといって女性が個を持っていないというのではない。女性も自分の欲望や必要を優先することから道徳問題を解決しようとする。そしてコールバーグが指摘するように、この「〜したい」という欲望による判断が慣習的判断「〜しなければならない」へと移行もする。しかし、女性の場合、ここで問題が生じるのである。慣習に準じるということは、慣習が求める女性のあり方を受け入れることでもある。ギリガンが指摘するとおり、女性は自分より他人を優先することを社会から求められてきて、それが善とされてきた(いる)。一方、女性も関係性を重要視する。社会の要請と自分の志向の一致である。が、事はそううまくはいかない。要請と志向が絡み合えば絡み合うほど、女性は悩むことが分かったのである。つまり、関係性を重視すればするほど、女性は個が消え去るように思え、個を主張したくなる。社会の要請と自分の志向の一致により、社会からの圧力を受けたまま自分の志向への問いかけもしなければならないため、どうしても個はどうあるべきかという問題が二重にせり上がってくるのである。しかし、女性は省みる。個を主張すれば、関係性が綻びてしまうかもしれない。それはなんとしても避けたい。だって、関係性を維持していくことは私にとって大切なことだから。社会の要請とは離れて、自分の志向を大切にしたいという気持ちが込められているのが分かる。こうやって、女性は、個と関係性との矛盾を抱え込むこととなる。

女性にとって、個と関係性の矛盾の解決が第三段階目の判断になる。えっ、普遍的法の遵守へとは向かわないのか、だって?それは、極めて困難だ。何度も言っているように女性は関係性を重視する。関係性を重視するということは、その関係性における具体的なことを考慮しないといけないということである。関係性は具体的なことでいかようにも変化し、そのように変化する可能性もひっくるめて、女性は関係性を重視する。具体性を関係性と同等に捉えるのである。が、普遍的法においてはこの具体性はその下位に置かれる。普遍的法が絶対的であるために具体性で普遍的法が変わるということはないのである。

では、個と関係性の矛盾を女性はどのように解決するのだろうか。キーとなる考え方は「傷つける」である。関係性を重視するために、女性は他の人を傷つけることを良しとしない。他の人については配慮する分にはその人を傷つけることはない。が、その配慮するために個を消していたら自分を傷つけることになる。一方、個を主張をすれば、他の人を傷つける恐れがある。両者を傷つけない方法はないものか女性は考える。

個と他の人の欲望や必要を葛藤させることなく包含する関係性の模索。この模索のなかで、女性はまず自分の選択に対して正直であることを求める。それはとりもなおさず、個に対して責任をもつということでもある。それと同時に他の人に対してもその人の選択に対して配慮する、すなわち、責任を持つ。二つの責任は葛藤するときもあろう。だが、そうであっても、葛藤を解決できるような方法で二つの責任を果たすことができるのではないか、女性はそう考える。女性にとっての道徳問題に対する判断の方法は、この葛藤を具体的な状況のなかでどう解決するかということなのである。だから、コールバーグが提案するような絶対的な普遍的法などは存在しない。女性が求めるのは、極めて状況具体的な解決策なのである。

女性の道徳問題への判断の下し方が上のようであれば、従来の心の発達モデルにそぐわないことになる。そのモデルが規範として採用されるのであれば、女性は第二段階あたりで「挫折」すると位置づけられる。

こういう風に導き出された「挫折」をどう考えるか、とギリガンは読者に問う。女性が問題なのか、それとも女性の心の発達を「挫折」すると導く心の発達モデルに問題があるのか。ギリガンはフィールドワークの結果から、次のように主張する。フィールドワークで得られた知見は従来の心の発達のモデルと合致しない。だからといって、女性を成熟していないということはできない。彼女たちは異なる判断基準で道徳問題に対処しているのだから。となれば、コールバーグが立てたモデルは、この異なる声を排除することで成立していると考えられないか。従来の心の発達モデルは男性型なのではないか。そうであるならば、女性をそのモデルで判断することは筋違いだろう。女性には女性の世界観があるのだから、と。

ここで、それに付け加えて、次の二点だけは押さえておくべきだろう。まず、第一には、個を軸にして理論を形成することの妥当性を再考する必要があること。言い換えれば、私たちは関係性の中で生きているのだから、個を中心に物事を判断していってもいいのか、と常に我が身を省みなくてはならないということである。第二には、コールバーグが提案する心の発達モデルをフェミニズムもその理論を形成するにあたって参考にしていないかということである。フェミニズムも我が身を省みる必要があると思われる。