異なる声 (8)

女性が子供を産む、産まないを決める。いわゆる女性はリプロダクティブ・ライツをもつとされている。女性という個人が、産む、産まないを決定する権利を有しているということだ。

だからといって、リプロダクティブ・ライツが普遍的な権利である、と言うことは出来ない。リプロダクティブ・ライツは、女性が男性と平等であるためには欠かせない権利として、女性が自分の生を自分で拓くことができるために必要なものとして、歴史的に登場してきたものである。フェミニズムという学問の中で、大切に育てられ、そしてフェミニズムに支えられながら実生活の中で獲得されてきたものである。国家や男性に管理されてきた命の再生産は、これからは「私」が決めると。

しかし、本当に「私」が決めているのだろうか。リプロダクティブ・ライツはフェミニズムという学問の中にあってこそ優勢な考え方ではないだろうか。一般の女性もそう考えているのだろうか。

そのような疑問をはさんだのがギリガンの観察結果である。これまで、ギリガンは観察の結果から、道徳問題を解決する際に、女性は個を中心として考えるのではなく、関係性に軸足を置いて考えるのではないかという推論を立てている。となれば、女性が子供を産む、産まないを決定する際も関係性が重視されるのではないか、と思われるのである。なんと、女性による、女性のためのリプロダクティブ・ライツの否定である。

実際、ギリガンは道徳問題の一つとして中絶問題を扱っている。これから中絶しようかどうか迷っている女性たちにインタビューをし、彼女たちの心理状態を表に出そうとする。このインタビューをもとに彼女たちの心理状態を忠実に読んでいくと、彼女たちは決して自分の判断だけで決定を下してはいない。彼女たちは、自分の家族、夫やボーイフレンド、生まれてくるかもしれない子供の声を聞く。自分たちの経済状態、学校生活、仕事の声を聞く。自分の声を中心にするのではなく、それを多様な異なる声の一つと考え、文字通り重層的に産む、産まないを決定していくのである。「私」が決定因子となることはない。

一人の女性の決定過程を見てみよう。彼女は、「責任(自分、自分の周りの人、自分の環境への責任)の問題」よりも「個人の権利」を重視する人々を批判する。なぜなら、中絶問題は様々な感情が絡み合った問題であって、「ヒエラルキー化された信念」に基づいて決定を下すにはその「信念」は血が通っていないというのだ。彼女はこう言う。

「たしかにヒエラルキー化された信念だけを見るなら、これらの信念は良いものだと思う。でも、自分の決定に使おうものなら、ヒエラルキー化された信念というのはボロボロに崩れてしまうの。結局は、実生活の決定に対応できるようにはできていないのね。それに、責任を考える余地をこれらの信念は与えていないし。」(p126)

ヒエラルキー化された信念」というのは色々な権利の序列化のことであり、リプロダクティブ・ライツもその中に入っていよう。彼女が批判するのは、これらの権利が責任について考える余地を与えないということなのである。つまり、権利は関係性を排除したかたちで、個人を基礎として立てられたものであると。どうして、そのような権利に頼ることができるだろうか、私の人生の一番大切な時に。私の人生は私だけで成り立ってはいないのに。

権利は必要である。でも、どうしても権利だけでは解決できない問題があり、それらの問題の多くを女性は抱えている。なぜなら、女性は、権利が構成される過程とは異なる過程で問題を構成するからである。

リプロダクティブ・ライツは女性のための権利である。が、当の女性にとっては役立たずのようである。リプロダクティブ・ライツは公共圏の論理に沿ったものであって、責任や関係性が絡まり合う親密圏を足場にする女性にとっては縁遠いものとして映るのかもしれない。

えっ、本当にそうなの? 女性のための権利を女性が否定することってあるの? 私自身も半信半疑である。さあ、この問題をさらに深めて議論している第5章「女性の権利と女性の判断」を読んでみよう。