異なる声 (9)

自己犠牲は女性の美徳であると長い間考えられてきたし、今もそう思われている。私も美徳だと思う。例えば、家族の誰もが自分の事ばかりに関心をもち、家族全体のためにやるべき事をしない場合を想定してみよう。こんな場合、料理や洗濯や掃除や育児や介護を誰がやりたいだろうか。自分を優先したいのに。皆がそう考えているとき、自分の事を後回しにして、家族のために家事をやるのが女性である。彼女たちは黙々と動き働き、家族のための夕食を準備する。仕事後疲れていても、どうして私がやらなければならないのかと考えても、家族を優先するのである。人のために、その人を思って、自己を犠牲にしてまで何かを行う。やって当然だと周囲から思われていることを、様々な葛藤を抱きながらも、それでも人のために尽くす。小倉千加子はこのような無私の態度を褒め称えた。私もまたそのような女性に敬意を払いたい。そして、無私のなかで彼女たちが発しているかもしれない、人には聞こえない声を聞いてみたいと思うのである。

ところが、この自己犠牲、女性の権利が要求され始めると美徳であることを否定される。1848年、ニューヨークのセネカ・フォールズでの大会でエリザベス・スタントンは自己犠牲について次のように述べる。「自己の発展こそが自己犠牲よりも(女性にとって)より高い義務である。女性の自己発展を妨げ、その障害となるのが自己犠牲である。」(129)自己犠牲の否定の背景には女性の権利を要求する声があった。セネカ・フォールズでの宣言によれば、「全ての男性と女性は平等に生まれついており、私たちは神から誰からも奪われることのない権利を賦与されている。この権利には人生、自由、幸福の追求への権利が含まれている。」(128)男女は平等なのに、女性だけが自己を犠牲にするなんて、それは自分を奴隷化しているだけだ。いや、社会が女性に自己犠牲を強いているとも言える。そうやって女性の奴隷化を認め、進めることで、男性による女性支配を助長しているのだ。そんな社会で、女性はどれだけ苦渋をなめてきたか。女性はどれだけ自由への芽を摘まれてきたか。女性はどれだけ不幸だったか。女性はそのような弱者の位置に留まってはいけない。女性も男性と同じように自分を伸ばしていって、それによって社会全体の善に貢献できる。女性の権利の擁護者はこう力説する。

女性の自己犠牲は、このように当の女性によって持ち上げられたり否定されたりする不思議な行為である。例えば、専業主婦を擁護するときも専業主婦を批判するときも、取り上げられる行為である。女性の権利が要求されて久しくなってからも、いまだにこの自己犠牲は否定され尽くされていない。フェミニズムがこれほど社会に浸透し、フェミニズムはその使命を終えたと言われてなお、生き延びる自己犠牲。あるいは、生き延びる(自己犠牲を美徳と考えるタイプの)専業主婦。

女性の権利の要求は、自己犠牲が女性にとって不利であると説く。そうであるならば、何故、そのことを女性に納得させることができなかったのか。ギリガンはその謎をこう説明する。女性の権利と女性の自己犠牲は、当の女性にとって相互排他的関係かつ競争的関係にあるのではない。だから、肯定するとかしないとか、そういう問題ではない。女性の権利の要求が女性の耳に届かなかったというのは、正確に言えば、それは女性の自己犠牲と葛藤を起こすものの、だからといって捨て置かれるものでもなく、女性の自己犠牲の中身を変容させるものとして受容されたからだと。どういうことだろうか。

まず、第一段階においては、女性の権利と女性の自己犠牲は相互排他的関係に置かれる。社会正義を女性にも公平に分配してもらいたい(男女平等)という女性の権利の要求は、女性が他人に配慮する自己犠牲とは相容れない。ギリガンの観察によると、フェミニズムの恩恵を受けた女性が自己主張をしたとする。それ自体は納得のいく行為である。フェミニズムは女性が個として主張したいことを言葉にするのを肯定する。ところが、女性は、自己主張をすればするほど、自分が利己的に思えてならないというのである。それは、自分が自己主張することによって、人を傷つけたり、関係性を壊してしまうことを危惧するからである。ギリガンがインタビューした女性の一人はこう述べる。「人に対する責任はこういうことだと思うの。他の人に対して配慮し、その人のニーズに対して敏感であること。その人のニーズは自分のニーズの一部と考えるから敏感にならざるを得ないの。だって私たちは他人に依存してもいるでしょう?」この女性の観点から考えると、自己主張は人への配慮という責任と衝突する。個人の権利と人への責任は相容れない。

と、まず女性は考えるというのだ。しかし、フェミニズムの影響力はやはり大きく、この相互排他的関係を変容させることとなる。ギリガンがインタビューした女性たちもまたフェミニズムから学んでいた。何を。個の主張をである。女性たちは人の声に耳を傾けることを良しとした。しかしそれだけをしていては、自分の主張の行き場がない。個の主張を肯定するフェミニズムを知った後では、自分を主張していきたいという気持ちを抑えることはできない。人への責任感だけではこの袋小路は決して解消されない。

袋小路を解決したのが他ならぬフェミニズムであった。フェミニズムにならって女性たちは個の主張を求め始めたのである。だが、異分子に全面的に頼るということはしない。何をしたかというと、彼女たちは、個の主張を従来の責任の倫理へと組み込んだのである。つまり、人への責任だけではなく、自分に対しても責任をもてばいいのではないか。人への責任と自分への責任が葛藤する場合もあろう。そのときに、関係がどうなっているのか、自分は関係の中のどこに位置するのか、そういうことを考えて判断を下すことは可能ではないか。

極めて微妙な取り込み方である。それには理由がある。インタビューされた女性たちによれば、フェミニズムはまるで正しい答えは一つしかないような主張をする。でも、と彼女たちは考える。関係の中では答えは一様ではない。絶対的に正しい答えなどなく、状況に応じて答えは変化するのだ。フェミニズムは個を中心に問題を構成するため、このような関係性の問題に対処できない。これがフェミニズムの弱点であり限界である。

フェミニズムから学ぶ点は多い。だが、フェミニズムは絶対的ではない。それは、フェミニズムが個を中心として物事を思考、実践するからだ。しかし、私たちは個だけで生きているのではない。関係性という社会的状況にも置かれているのであり、この「人間の経験」(147)に付随するもうひとつの面を見失うことはできない。自己主張を通したいときがあっても、この、もう一つの「人間の経験」を無視することはできない。私たちは確認したい。個と人は異なってはいても繋がっているのであり、けっして互いが孤立して、個としてだけで存在しているのではない。

女性たちは、こうやって、女性の権利と女性の自己犠牲の関係を組み替えていった。女性の権利から女性たちは学んだが、それがゴールではないということも確認したようだ。