フェミニズム言説がL文学化する−(3)L文学とは何か−

大正時代に始まった少女小説は、女の友情を大切に育み、またその過程で、様々に変奏してもきた。しかし、戦後になると女の友情は次の局面を迎える。国産の少女小説に代わって翻訳少女小説が台頭し、新たなテイストが付加されることとなったのである。翻訳少女小説の代表として挙げられるのは、モンゴメリ赤毛のアン』、オルコット『四人の姉妹』(『若草物語』)、バーネット『小公女』『秘密の花園』、スピリ『ハイジ』(『アルプスの少女』)、ウェブスター『あしながおじさん』。(斎藤)とくにモンゴメリ赤毛のアン』への支持は高く、それを反映してか、村岡花子による日本語訳が1954年に出て以来、村岡を含めて13人の翻訳者による日本語訳が出版されるという熱狂振りである。

ところで、『赤毛のアン』の最初の日本語訳出版が1954年だったことを考慮すると、読者層もおのずと限定されてくる。斎藤によれば、それは、「1945年〜60年代生まれの女性、すなわち現在の30〜50代」だという。つまり、日本語訳が出て、新しい少女小説にすぐさま飛びつくことができた世代ということである。すぐさま飛びついたということは、彼女たちにとって、それまでの国産少女小説が古臭く思え、その一方で『赤毛のアン』が新しい魅力をたたえていたということだ。この魅力を理解する鍵となるのが戦後という時代である。

戦後世代の少女たちにとって、新たな時代は民主主義が約束された時代であった。なかでも、男尊女卑から男女平等という人間関係の理念の転換は、少女たちの生き方を180度変えるような大事件だった。ところが、当時はこの新しい生き方を指南してくれるロール・モデルがいない。この空隙に入ってきたのが『赤毛のアン』だったのである。

アン。この少女はどんな特徴をもっていたのか。『赤毛のアン』の著者であるモンゴメリその人の人生を検証すると、意外と簡単にアンに近づける。

小倉千加子『「赤毛のアン」の秘密』によると、モンゴメリは家庭に閉じこもるのを厭い、それよりも新しいことに果敢にチャレンジする人生を夢見る少女だった。そんな彼女を後押ししたのが、彼女が思春期まで過ごしたプリンス・エドワード島の大草原である。そこには見渡す限り何もなく、いわば彼女の人生のキャンバスにうってつけだった。大草原は何でも描きつけることができる可能態の象徴として彼女の目に映ったのである。この大草原を前にして、モンゴメリは作家になることを志し、そしてその意思を現実のものとする。

ところが順風満帆だったはずの彼女の人生に転期が訪れる。経済的に自立して作家としての人生を全うするか、結婚という社会の慣習を選ぶか、という選択に迫られたのである。時は20世紀になったばかり。職業婦人が登場して初めて出てきた女性特有の問題にモンゴメリも直面したのである。彼女は考えるために大草原の前に立ってみる。ところがである。少女時代には可能態であったはずの大草原が、今は避難所も何もない恐怖でしかない場所に変化してしまっているではないか。足の震えを止めることができないモンゴメリ。座り込んでしまった彼女は、結局、結婚という社会の慣習に寄り添うことを選び取り、大草原に身を投じなかった。そして、その犠牲はことのほか大きかった。自らの手で未来を閉ざした彼女は、その生真面目さゆえに、自分を責めることと結婚を責めること、自己責任と被害者意識、その両極を行き来し、そういうなかで、可能性をもっていた過去という観念に取り憑かれる。そのため、自分の現在に生きることの実感をもてず、終いには自殺することをこれまた選んだのである。

モンゴメリが教えてくれたこと、それは、現状肯定しようとする自分に向き合う勇気をもち、孤独や恐怖に耐えながらも未来に投機する、そうすればその向こうにはきっと何かがあるはずである、ということだ。

アンの人物造型には、このモンゴメリの教訓がいかんなく生かされている。「元気で活発で好奇心や独立心が強く誇り高くていたずら好き。」(斎藤)赤毛やそばかすだらけの顔を密かにコンプレックスとするも、他人からとやかく言われるのは大嫌い。そんなからかいには機知と想像力に富んだ言葉で相手をギャフンと言わせる強い性格をもつ。野心も高く、懸賞小説に応募して作家への道を切り開き、また、経済的自立のためには教師になる努力屋さんだ。といっても思春期の悩みは尽きず、そんなときに話し相手になってくれるのが同年代の女の子だったり、年上の女性だったりする。そう、『赤毛のアン』は、それまでの少女のジェンダー役割から逸脱して自由にのびのびと生きていく少女のビルドゥングスロマンである。そして、女の友情がその生き方を支えてくれる要として描かれているのである。

赤毛のアン』を読んで、戦後生まれの少女たちは痛快に思ったに違いない。そして、どんなにかその後の自分たちの人生に胸を躍らせたことだろう。ただ1点を除いては。アンもやはり最後には、幼馴染の男の子と恋愛結婚するのである。このありふれた結末を良しとするかどうかは読者の判断に委ねられよう。しかし、ジェンダー役割に縛られない破天荒な生き方があると少女たちに知らしめた意義は否定しようもなく、これが『赤毛のアン』のL文学への貢献なのである。L文学の祖である少女小説は、女の友情を核としながらも、新たな生き方を提案する時代に突入した。そうやって、「私たちにしか分からない世界」が、作者・主人公・読者が女性であるという、女性の共同体によって連綿と受け継がれることとなる。