異なる声 (6)

女性が関係性を重視するというのは、いろんな人が述べていることである。

例えば、精神科医斉藤環は、男女の差異について、男性は所有から、女性は関係性から物事を把握していったり、進めていくと言っている。

しかし、残念ながら、たいていこのような議論をするひとは、この差異から議論を発展させ、いろんな事象をさばいていくことに関心があるように思う。つまり、前提がアプリオリとなっている。アプリオリとなれば、批判が寄せられる。男性は所有することを、女性は関係性を重視することを、所与のものとして持っていると見なされる。そうすると、それは、本質主義的議論であると痛罵されることになるのである。

女性は関係性を重視するという想定にそれは本質主義にすり替わる恐れがあるとして、その想定を否定したひとに上野千鶴子がいる。彼女は自分の立ち位置を、「ケアの社会学」(太田出版、2011年)のなかでギリガンを評価する際に明らかにした(ちなみに既に2002年にギリガン評価を行っている)。

上野のギリガンの理解は以下のようなものである。

「ギリガンによれば、ケア(配慮)とは、相互依存、配慮関心、義務と責任の概念を複合的に含む道徳的基準であり、権利の倫理のような首尾一貫性を欠くが、状況依存的であることでかえって優位にあるような、主として女性が発達させてきた道徳性をさす。・・・・・・だが、それはすでに男性によって評価を与えられた「女らしさ」の特性を評価することで、ジェンダー本質主義――生物学的本質主義でないにしても、文化本質主義的な――を招き、性差の固定に寄与するという効果があった。・・・・・・この本(ギリガンの本、著者注)の刊行の時期が、レーガン政権下のバックラッシュのさなかであり、フェミニズムの中から生まれた「家庭と女らしさへの退却」が、保守派の読者によって歓迎されたという事情がある。」(50頁)

彼女が着眼したのは、「男性によって評価を与えられた「女らしさ」の特性を評価」することであった。その着眼は、「評価」が本質主義につながり、性差が固定化され、その固定により、女性が関係性のなかに閉じ込められるという危惧へと着地する。上野の心配はもっともなことである。

しかし、そのような危惧があるからといって、女性が関係性を重視する傾向にある、という想定を否定するのは間違っているような気がする。確かに、上野が言うように、女性の関係性重視が女性に不利に働いてきたかもしれない。ひとのことに心を砕いて、自分を抑制することがあったかもしれない。だからといって、女性が関係性を重視するという想定までをも否定していいのだろうか。女性が関係性を重視することが、女性に有利に働くにせよ不利に働くにせよ、そのような想定はあり得べき想定として受け入れるべきではなかろうか。はなから否定してばかりいては、何か大切なものも一緒に流してしまうのではないか。

と、思いながら、ギリガンを読み進めているのである。ギリガンが、インタビューのなかから聞き取った女性の声は、女性の声を男性の声の枠組みの中でしか聞き取れなかった私たちへの批判となる。上野のギリガン批判への批判をこう書き換えてみよう。女性の声は、男性の声を唯一の声として聞くように育てられてきた私たちに、男性の声という権力を支えるのものとして聞いてきた私たちに、「異なる声」があることを教えてくれる。どうして、この「異なる声」を再び封印しなければならないのだろうか。

専業主婦イメージは貧困

女性のなかで、専業主婦願望をもつ若い人が増え、専業主婦を支持する人も増えている、という言説を最近見かけることが多くなった。

と書き出すと、もうすでにその後には専業主婦への否定的イメージが浮かんでくる。人は大人になると自分の食べる分は自分で働いて稼ぐべき。社会や仕事の辛さからの逃避である。夫をあてにして楽して生きようとする生き方。税金も健康保険料も国民年金も払わないのに、それらの恩恵にはフリーライド。趣味と実益を兼ね備えたビジネスしてちょっとしたお小遣い稼ぎをしようとする優雅志向。

こう書くと今度は、専業主婦側からの反論がすぐ思い浮かぶ。一日中家事に拘束されている気持ちはお分かり?国の将来を担う子育てをしているのは誰かしら。今は多様化の時代なのだから、専業主婦の生き方を選択したからって、とやかく言われる必要はないし、もしかして、稼ぎの少ない夫をもった(もつ可能性のある)女性のひがみかも。

ああ、男女平等ってことが全然分かっていない。男女平等っていうのは、それまでの性差別の温床だった性別役割分担から離れて、新たな男女関係を作り直していこうって話。これを遂行するには、多くの男女にその利点を理解し、実行してもらわなくちゃいけない。それなのに、専業主婦は時代を逆行しようとするんだから、まったく気がしれない。

という感じで、否定に否定を重ねるロジックに嵌ってしまう。これが、働いている女性から話を始めると違うロジックが使われる。いまだ家事・育児負担を多くもつ女性の働き方をどうサポートしていくか、ということに議論が集中する。雇用条件の改善に男性の家事・育児参加などなど。専業主婦は蚊帳の外となる。

かように、専業主婦いじめは苛烈であり、それゆえ、そのイメージの貧困ぶりは目をみはるものがある。以下、最近のジャーナリズムが専業主婦のステレオタイプのイメージにどう乗っかっているか見てみよう。

まずは統計のお話から。これは私が参加しているメーリスからの引用。

「特集ワイド:私、専業主婦になりたい」@毎日jp(2010年7月7日夕刊)

◇残業代も無く深夜まで働くより/いい会社に入りいい相手見つけ/趣味やスポーツで自己実現

 専業主婦になりたい若い女性が増えているという。「男は仕事、女は家庭という価値観はとっくに過去のものになったと思っていたが、なぜだろう。背景を探った。【山寺香】

 「いい会社に入って、いいだんなさんを見つけたい。働く自信はあるが、特にやりたいことは無い。それよりも、専業主婦になって気楽に伸び伸びと過ご したい」
 こう話すのは、お茶の水女子大2年生(20)。大学の友人は「夫に『養ってやっている』と思われたくない」「夫と対等でいたい」などと、結婚後も働き続けることを希望するが、その発想が理解できない。「いいだんなさん」とは、一流企業に勤め、自分が働かなくても家族が余裕ある生活をできる経済力
のある男性だという。
 結婚するまで裁縫の先生をしていた専業主婦の母親(54)は「女性も働く時代よ」と、娘に公務員を勧めるが、工業大生の姉(22)も専業主婦志望。「育て方を間違えたかしら」と母親は首をひねる。

 国立社会保障・人口問題研究所が既婚女性を対象にした「第4回全国家庭動向調査」(08年7月実施)では、「夫は外で働き、妻は主婦業に専念すべきだ」と考える既婚女性の割合が、前回(03年)よりも3・9ポイント高い45%となった。93年の調査開始以来、初めて増加に転じた。
 特に顕著なのは29歳以下の増加で、前回よりも12・2ポイントも高い47・9%に達した。30、40代も増加しているが、50代、60代は変わらず低下した(グラフ参照)。

    ■

 不況や「格差」の広がりが要因との指摘もある。08年秋のリーマン・ショックによる世界同時不況を機に、就職市場は売り手市場から“氷河期”に一転した。

 上智大4年の石居里実さん(21)は小学生の時海外で暮らした。大学2年まではツアーコンダクターや同時通訳を志したが、その後専業主婦志望に転向。きっかけは、専業主婦である友人の母親が趣味のアートを優雅に楽しむ姿にあこがれたことだが、それだけではない。昨年10月以降、旅行、ホテル、航空など二十数社を受験したが、内定はまだ。友人の8割は就職先が決まり、「主婦になってこの状況から逃げたい」との思いもある。

 マーケティングアナリストで「下流社会」(光文社)などの著書がある三浦展さんは、専業主婦志向の強まりを「ないものねだり」と言う。働く女性が珍しかった時代は働きたい女性が増え、不景気で共働きが増える今は、逆に専業主婦にあこがれる女性が増えているというのだ。

 「不景気で女性の仕事が減る中、たとえ正社員になれても入社2、3年目で居酒屋などの“名ばかり店長”となり、残業代も無く深夜まで働かざるを得ないような状況が増えている。年収200万〜240万円で、収入が増える見込みも無い。そういう状況で専業主婦を望むのは、当然の感情です」と三浦さん
は話す。

 一方で自分の収入だけで家族を養える男性は減少している。大手結婚相談所「オーネット」が20、30代の未婚男性1135人を対象にした09年の調査では、結婚相手に「フルタイムで働いてほしい」が40・4%を占め、99年調査よりも13ポイントも増えた。「派遣などで働いてほしい」を合わせる
と8割近くに達する。

 このギャップを女性たちはどうとらえているのか。日本女子大2年生(20)は「高校時代から目的は明確でした。一流大学、一流企業に入り、いい夫と出会うこと。だから、受験勉強で努力したし、これから就職に向け、資格を取るつもり。不況だからこそ、早い時期から頑張っているんです」。明確な目的意識と目標達成への周到な準備。まさに「婚活」だ。

 そこで、足を運んだのは東京都港区南青山の料理婚活教室「アールズキッチン」。20〜30代の男女4人が、森由美子先生の指導を受けていた。フランス料理教室「パリ15区」を主宰する森さんのこの日のメニューは「スパイシーサマードリア」など3品。男性が混ぜたクリームソースに女性が牛乳を注ぐ。

 女性2人は専業主婦志望。ウェブ関連企業の営業職、江副友美さん(26)は「数字に追われるストレスを抱え続けるのはきつい。子どもが生まれたら、仕事は辞めたい」と言う。一方、不動産会社勤務の森勉さん(35)は、「結婚したら専業主婦になってほしいが、経済的に厳しい。二人が料理を作れたら共働きでも便利」。男女の思いは微妙にすれ違う。

    ■

 「男は仕事、女は家庭」という保守的な価値観への回帰を示しているのだろうか。

 女性の働き方の問題に詳しい実践女子大学の鹿嶋敬教授は、この見方を否定する。今回の調査だけで保守化傾向を肯定することはできないという。「女性が高学歴化し、夫をサポートする人生だけでは満足できなくなっている」

 話を聞いた女性のほとんどは「自宅で趣味の教室を開きたい」(20歳、学生)、「友人との交流やスポーツを楽しみたい」(22歳、総合商社勤務)という。趣味を通して社会とつながり、妻や母というより、一人の女性として輝きたいという思いが強い。

 この特徴は98年の厚生白書で「新・専業主婦志向」と紹介されている。だが、安定した生活基盤が崩れつつある今、専業主婦は当時より「狭き門」。鹿嶋教授は、専業主婦へのあこがれは「砂上の楼閣である」と指摘する。

 「この世は二人組ではできあがらない」(新潮社)などの著書がある作家の山崎ナオコーラさん(31)は、20代女性の意識について「人生が生き残り合戦のように見えているのではないか。『専業主婦になりたい』は、『安定した公務員になりたい』と同じ発想のように思える」と言う。

 「私が学生のころに専業主婦になりたい友人がいなかったのは、上の世代の女性が社会とつながる夢を見せてくれたから。それに比べ、暗い話を聞かされ続けている若い世代は、高校生のうちから年金や老後の不安を感じ、自分や家族の狭い世界に踏みとどまってしまっている」

 山崎さんはこうも言う。「質素でも、家族仲良くやりくり上手に暮らす女性の好感度は上がっている」

 道無き道を切り開きながら外で働いてきた“先輩女性”から見れば、20代女性の専業主婦志向はどこか物足りず、「甘えている」とさえ見えるかもしれない。しかし、経済低成長時代に生きる若い世代にとっては、精いっぱいの願望とも言えるのではないだろうか。(毎日)

と、専業主婦(願望)に一定の理解を示しつつも、論調としては、専業主婦(願望)を否定しているように読める。それは、専業主婦という言葉を使うときに例の貧困なイメージを連想させるようになっているからだ。

もうひとつ、朝日新聞(2010年8月20日夕刊、まとめは筆者)から。

NHK総合などで放送中の「ゲゲゲの女房」と全国公開中の「借りぐらしのアリエッティ」が好調である。その人気の理由は「専業主婦」を取り上げた点にあるのではないかと記者は見ている。

これまでNHKの朝の連ドラではヒロインに「仕事を持つ明るい女性」を据えてきた。ところがこの伝統に反して、「ゲゲゲの女房」では専業主婦に焦点を当てている。「今回のヒロインは、最初から働きに出ない。仕事一筋の夫の才能を信じ、家庭を守るという典型的な良妻賢母タイプである。」

これを記者は「古い家族像」と呼び、同じ構図が「借りぐらしのアリエッティ」にも見られるというのだ。「この少女の家族が古くさい。父が仕事に行き、母が家事を仕切っている。一方、少年の母は仕事で海外出張中。彼は寂しく思っている。」

こうした家族像が人気を博す理由も記者は明快に書いている。「男女の役割が流動化した社会では、男も女も激越な競争にさらされる。何にでもなれるということは何にもなれない可能性を含んでいる。保守化している若者が増えているのも、そんな現代社会への「疲れ」が背景にあるのではないか。」

そして結論。「しかし、だからと言って「昭和」に戻るべし、とは思わない。性差別のない社会を目指して、やっとここまで来たのだ。現代の平等は、女性が男性と同じように企業戦士になることで成立している。ワークシェアリングをもっと進めるなど、人々を「昭和」に戻りたいと思わせない工夫がないと、本当に時計の針が逆回転を始める。」(朝日)

専業主婦は貧困なステレオタイプのイメージを基礎に語られ、超えられるべきものとして位置づけられている。記者の「進歩史観」は明らかである。

なぜ、専業主婦は超えられるべきものとして、現代社会にはフィットしないものとして語られるのか。理由は明白で、フェミニズムイデオロギーが「進歩史観」を採用しているからである。進歩史観はそもそも貧弱なもので、目的を据え、その目的に対して右肩上がりをするために、昔のものを超えていこうとする運動をよしとする史観である。いらないものは捨ててしまえという運動である。

でも、本当にそうなの?と疑義を挟むのが専業主婦願望だと私は思うのだ。女性も働いて社会に貢献しないといけない。自分の食べる分は自分で稼ぐ。自分だけ楽しようって姑息だよね。若い人だって、これくらい常識として分かっている。しかし、こういった常識を凌駕するものが専業主婦のなかにあるのかもしれないって、若い人は考えているような気がする。

もしかして、専業主婦は豊潤なイメージで語られる存在かもしれない。「現代社会の疲れ」を癒すという陳腐なイメージではなくて、それ以上のものがあるのかもしれない。私が「異なる声」という記事を書いているのもそれを模索するためである。

異なる声 (5)

少年と少女はひとつの道徳問題にたいして異なる解決方法をとっている。

少年は、所有物と命を対立するものとしてその道徳問題のなかに見い出し、この対立項を論理基盤として解決を導き出す。薬屋の薬とハインツの妻の命を比較すると、どう考えても妻の命の方が重要である。だから、ハインツは薬を盗んでもいい。もちろん、この盗みは法に触れるのだから、逮捕されるのは当然のことである。でも、法はこのような道義的問題を組み入れてできているわけではない。だから、法にはこの道徳問題を裁くことはできない。法にできることは、法が定めた規則の網をかいくぐって、運用において道徳問題に対応することである。ハインツに最も軽い刑が下されるのは法の良心である。

このようにして、命は重要なものなのだから、その1点から、正しい行為は何であるかが導きだせる、と少年は考えている。その際、既存の社会や法の秩序にも配慮し、それらを変えることなく保ったままで解決しているのが特徴的だ。盗みは犯罪である。それでも命を救うためには、正しい行為になりうるということを、誰からも論理の瑕疵を指摘されることなく、証明している。

少女がとったアプローチは異なるものだ。薬を盗むという行為に対して、彼女はいささかの迷いを持っている。なぜなら、薬を盗むと今の社会・法秩序においてハインツは逮捕されてしまうからである。そうしたら、誰が妻の面倒をみることになるのか。いや、それ以前に、自分のために盗みをはたらくなんて、本当に申し訳ないと、妻の心はいたく傷つくだろう。やっぱり、盗んではいけない。

だったら、別の解決策をみつけるべきだろう。ハインツは借金することもできるし、薬屋に交渉してツケで薬を買うことも出来る。そうすれば、ハインツが逮捕されることもないし、薬屋も命を軽んじたと誹りを受けることもない。妻も大切な薬を手に入れることができる。盗みを犯せば、ハインツも薬屋も妻もみんな傷つく。そうならないためにも、関係者は話し合って、事の解決をはかるのがいいんじゃないかと思う。

少女の考えは、一つの正しい行為に収斂することはない。少年が正しい行為とした盗みについても否定的だ。理由はそれが反社会的行為だからというよりも、関係者が傷ついてしまうというところにある。みんなが傷つくことなく問題を解決するにはどうしたらいいのか、ということに少女は固執する。

この少女の固執の根底には、関係性を重視するまなざしがある。ハインツが盗みに走らないことは、妻のニーズに一時的ではなく継続的に対応し、そうやって妻を大切にすることになり、妻は夫の助けを必要としながらも夫の生活の心配もし、薬屋は薬屋で困窮する人を助けると同時に損をしない商いをすることができる。お互いの関係を見つめ直したら、こういう解決策が最もいいのだと少女は答えたのである。

ギリガンはこのように少年と少女の反応を分析し、その違いを明らかにした。少年は正しい行為があるという。それを論理的に導き出している。瑕疵が無い分、反論は難しい。少女は正しい行為はあることにはあるが、それは1つではない。その場の状況と関係性を重視したなかから導き出せるようなものだと言う。

問題は、少年と少女の主張のどちらが正しいかだとか、説得性があるかだとか、そういうことではない。少年と少女はどちらとも自分の道徳観を述べただけだ。問題があるのは、少女の論の運び方では、「では、具体的にどういう解決策があるのか」と聞かれた場合、具体的に答えられないことだ。その場の状況と関係性は固定したものでないから、少女はそのように判を押したような質問には答えられない。「だから、いろいろ解決策はあると思うの」としか答えられない。「でも、解決策を決めないことには物事は進まないじゃないか?」と突っ込まれる。詰め寄られた少女は「だって、盗むのはよくないことだから」と循環的にしか反応できない。「なんだ、元の黙阿弥じゃないか。この少女、道徳問題に対処できないな」と結論づけられるのは必至である。

つまり、少女の声は抑圧されるのである。単一性を成熟とみなし、多様性を未熟とみる社会が彼女の声を抑圧する。え、社会は多様性を認め、推進すらしているじゃないかって?本当にそうなの?

ギリガンがやろうとしているのは、少女の声が聞き届けられるようにすることである。「異なる声」として、少年の声と優劣関係に置くのではなく、水平な関係に置くようにすることである。

異なる声 (4)

今読んでいるキャロル・ギリガンの『もうひとつの声』には興味深い例が使われている(以下、引用は1993年発行の英語版から)。少年と少女がある仮説にどう反応するのかを見、それで男女の違いを浮かび上がらせようとするのが狙いだ。ちなみにこの少年と少女、頭がよく、社会問題にも敏感で、例えば、ジェンダーステレオタイプを躊躇無くすんなり受け入れるという子どもではない。それどころか、抵抗を示しているようなところがあって、少年は英語の先生に、少女は科学者になりたいと思っている。

さて、仮説は以下のとおり。

ハインツという男がいた。この男の妻は今重病で、それを直すには高価な薬を必要とする。が、ハインツはその薬を買うだけのお金をもっていない。薬の値段を下げてくれと薬屋に交渉するも、薬屋は頑と首を縦に振らない。ハインツは妻を救うために薬を盗むべきだろうか?

少年の答えは明快である。少年は薬を盗むべきだと考える。彼は理由をこう説明する。

「ひとつには、人間の命はお金より価値がある。薬屋は1000ドルのお金を儲けるだけで、なおかつ生き続けるが、もしハインツが薬を盗まなければ、妻は死んでしまう。(質問「どうしてお金より命の方が価値があるの?」)薬屋は、後で、お金持ちのガン患者から1000ドルのお金を得ることができるけれども、ハインツは妻を取り戻すことができない。(質問「どうして?」)人々はみんな違う、だからハインツは妻を取り戻せないんだ。」(26)

少年は、次のようにも言う。

たとえハインツが妻を愛していなくても薬を盗むべきである。嫌いであることと殺すことは位相の異なることである。また、盗みのかどで捕まったとしても、裁判官はハインツがやったことは正しい選択だったと考え、最も軽い刑を与えると思う。ハインツは法を犯すことになるが、法だって間違っていることがある。

一方、少女は薬を盗むべきではないと迷いながらも答える。

「私は盗むべきではないと考える。盗むという方法以外に他の方法があるんじゃないかと思う。例えば、お金を借りたり、借金をしたりとか。でもハインツは薬を盗むべきじゃない。だからといって、妻を死なせてもいけない。」

(質問「どうしてハインツは薬を盗んじゃいけないの?」)

「もし彼が薬を盗んだら、妻を救うことができる。でもそうしたら、ハインツは牢獄送りになって、妻はもっと病気が重くなるかもしれない。それに牢獄に入ったらもう薬を手に入れることができなくなるので、それは良くないことだと思う。だから、ハインツと妻はよく話し合って、お金を工面する方法を考えるべきだわ。」

「妻が死ぬようなことになったら、多くの人が傷つくし、それがまた妻を傷つけると思う。……もし誰かが誰かの命を救うような物をもっているのに、それをあげないというのは正しいことではないと思うの。」(28)

さあ、少年と少女は、この道徳的問題をどう解決しているのか。みなさんは、どちらの意見ですか?

『更年期少女』を読む

表紙が綺麗でドキドキしたので、一呼吸して落ち着いて読んだ。

主人公はエミリー、シルビア、ミレーユ、ジゼル、マルグリット、そしてガブリエルの6人。1人を除いては、みんな更年期の日本人女性だ。一同介して会うときは、ひらひらのフリルドレスを着ていることが多い。食事はフレンチ。話す言葉も山の手言葉。夢の世界にいるような感覚を当然のごとくに楽しんでいる風情が伺える。

主人公たちがそう振る舞うには理由があって、それは、彼女たちが思春期の時に読んだ少女漫画『青い瞳のジャンヌ』のいまだ熱烈なファンであるということだ。彼女たちの思春期といえば60年代。日本がまだ貧しく、華麗で華美なものなど日常には存在していなかったモノクロの頃。もちろん彼女たちも野暮ったい日常生活に埋もれて生活していた。『青い瞳のジャンヌ』はこの思春期時代に彼女たちが渇望していたものを与えてくれた。18世紀のフランスを舞台にし、伯爵令嬢ジャンヌを主人公として、彼女の波瀾万丈の半生を描き、華麗で華美な生まれも外見も感性も持ち合わせた少女が自由闊達に成長していくことへのあこがれを少女たちの飢えた心に植え付けたのである。自分もそうなれるという夢や可能性を見させてくれたのである。

だからといって、主人公たちは『青い瞳のジャンヌ』に思春期時代と同じ強度でずっと更年期になるまで熱狂し続けていたわけではない。ただ、一部のファンがファンクラブのような形で細々と活動していただけだった。

それが、数年前から関連サイトが立ち上がり、思春期の頃『青い瞳のジャンヌ』へ傾けていた情熱が一気に再燃したのだ。件の更年期女性の名前は、そのサイトで使っているハンドルネーム。会合のときも互いにハンドルネームで呼び合っていたのだった。更年期女性だからといって、彼女たちの活動は今時の若者にひけをとらない。こてこての衣装は見ようによってはコスプレだし、二次制作はするし、ジャンヌのイラストをサイトにアップしたりもする。掲示板もときに荒れたりする。オフ会も盛況だ。

でも彼女たち、どこかが違うらしい。フレンチレストランでは、給仕が彼女たちを見て苦笑する場面がある。つまり、作中、作者自身が彼女たちを嫌みをこめて描いていることがある。彼女たちを斜めからみる視線が本の基調になっているといっていい。例えて言えば、冬ソナのDVDをツタヤで借りるときに、無意識に感じる店員の嘲笑のようなものがこの本のなかにはある。

更年期女性がなにかに熱中するとどうしてこういう事態が起こるのか。更年期女性が関心をもつ全てに関して、同じような反応が起こるのではない。ある種の対象にはまりだすと意地悪される。

登山に夢中になっても誰もなにも言わない。ガーデニングしかり。ゴルフしかり。が、石川遼を「遼クン」と呼んで応援すると笑われる。

答えは簡単である。作中にも書いてあることだが、更年期女性は少女がえりをするのである。そして、このことを多くの人は全面的に受け入れることができない。それが、嘲笑という形を取っているのである。

更年期と言えば、多くの問題が女性を直撃する時期である。まず、女性ホルモンの影響で自分の体と精神の変調に悩まされる。体は重力に抗えず、老い度を示すほうれい線もくっきりしてくる。子育てが終わったと思ったら、その子どもが思春期で反抗をしだすも、原因はさっぱり分からない。家のローンの返済も終わっていないのに、夫は会社でリストラ。そうこうするうちに、親の介護もしなければならない。老後が近づいてきて経済的にも不安は募る。

女性更年期は今のところ否定的なことばかりだ。そんなとき、あることを契機として、少女の頃を思い出すことがある。少女の頃を思い出すということは、少女の頃が良かったからである。なにが良かったかといえば、夢や可能性を追いかけることができたということだろう。更年期にあっても、それは可能かもしれない、そうやって女性更年期を否認するのである。問題を無かったことにしてしまいたいのだ。

しかし、果たして、更年期は、夢や可能性を追いかける時期なのだろうか。私はしばし考える。そして、それは違うと思う。そうではなくて、若い人の夢や可能性を叶えてあげる時期ではないのだろうかと思う。だから、若い人とは違う現実に直面するのである。若い人にとって未来が明るくあるように、更年期にある人たちは、その現実を否認することなく、ひとつづつ丁寧に対処していかなければならない。そのために更年期まで生きてきて知恵を身につけてきたのである。

息抜きが必要なときだってある。それは当然のことだ。だが、勘違いをしてはいけない。未来は若者のためにあるのである。みんなが未来を志向したら、現実の諸問題はだれが面倒を見るのか。

更年期女性文化は迷走している。若々しい服装からこてこての西洋風ドレス。溢れんばかりの老いを防ぐためのスキンケア用品。若さへの執着は未来への執着と一緒。一方で、解決しない問題は山積するばかり。手に余る。「更年期少女」は、この未来と現実という両極を行きつ戻りつして、問題を先送りしながら、第三項の老いへと我知らず向かっているのである。

ということを、『更年期少女』を読んで考えたが、本はちょっとゆるい推理小説

『更年期少女』

を読もうと思う。著者は真梨幸子、2010年発行の小説である。帯がないので内容が分からない。少女が更年期女性のようにいやに歳をとっている小説なのか、はたまた更年期女性がいまだ少女のような意識をもっているのを描く小説なのか。装画は松苗あけみが手がけており、典型的な少女のプリンセスが黒い色を背景にドンと真ん中に描かれている。少女の小説を少女で表象するというのは、あまりにもベタなので、多分、更年期女性が主人公なのだろうと推測する。

この小説は、家族がネットで見つけて買ったものだ。最近の私自身の年齢への対処の仕方が解せないのが購入の理由らしい。

私は40代後半である。家族はその年齢に見合った意識をもち、かつ年齢に応じた身なりをしてほしいと思っている。が、私はどうもそう簡単には自分の年齢を受け入れることができない。

まずは、ここ数年、自分の正確な年齢を即座に思い出すことができない。去年だか一昨年かの年齢を今の年齢と勘違いすることがある。だから、生年月日からきちんと計算して年齢を言うようにしている。

服を買うときも、年齢相応のものをどうしても買えない。年齢相応のものを着ると、年齢相応に見えるどころかもっと歳をとっているように見えるような気がするのだ。そう、例えていえば、TBSアナウンサーの長峰由紀のようになってしまう。彼女の年齢は知らないが、年齢と服装が合っているために(と私は思う)、年齢をよりとっているように見える。そして、その年齢超過分をカバーするかのように厚化粧をしている、と思えて、同性から見てなんとも複雑な気分がするのだ。キャリアウーマンとして年齢相応の活躍をしようとする気概が服装に表れるも、そこで生じる女としての「歳をとった」という焦りが厚化粧に表れるという、仕事人と女とは両立困難なのよというメッセージが届いてしまうのである。そして、自分が発するメッセージを消すように、長峰が厚化粧して必死に努力すればするほど事態が悪化するので、痛々しくて見ていられないのである。

外見を工夫すればそんな苦労もしなくてもいいし、両立困難のメッセージを出すこともないだろうと思う。だから、不要に歳をとっているように見えるよりも、若く見える外見をして年齢不詳のように思われる方が、うまくいけば若く見られて感心される方がいいと考えてしまうのである。

実年齢より自分を若く見せたいという意識は、自分はまだまだ若いという意識の表れでもある。若いという意識に利点があるとすれば、それは若い人たちの潮流にまだ乗っている、女として通用する、ということだろう。

が、これはアンチ・エイジングのイデオロギーにどっぷり浸っているに過ぎない。独りでドタバタしているだけである。思うに、人は意外と冷静で、実年齢通りの外見しか見ないし、実年齢に応じた意識しか感じない。いくら若く見えても、実年齢がバレると、えらく若作りしているな、と思われること必至である。

家族にとって、私はいつもドタバタしているように見え、痛ましかったのだろう。それで、一歩自分から離れて客観的に自分を見直してほしいという願いをこめて、『更年期少女』を買ってくれたようだ。

*追記
今ちょっと『更年期少女』の裏表紙をみたら、更年期の女性が少女のプリンセスの格好をした姿で笑っている装画があった。かわいいかと問われればかわいいと言えるが、実際に見たら仰天するだろう、と思わせる絵だ。ああ、びっくりした。

異なる声 (3)

猛暑日が続いたので海に行ってきた。海に入って涼もうとか、ビーチの散策を楽しもうとかそういうことが目的で行ったわけではない。毎年の恒例で、家族が肌をやきに行くと言うので、それに付いて行ったのである。

私は肌をやきたくないし、後でべたべたするし着替えも大変なので海に入ることもしない。かわりに、パラソルの下で、パイプベッドにごろんと寝そべって、推理小説を読む。炎天下で本に集中できないように思われるが、ビーチでは意外と海からの風が心地よく、家の中にいるときよりも外の暑さを感じないでいられる。軽い本を読む分には意外とよい環境なのである。

それに加えて、たまに、ビーチにいる人たちを眺めるのも楽しい。オイルを塗り合う光景を見ると、なんだか得をしたような気分になる。人が他の人の肌に直接触るというのは普段目にすることができない。でもここでは、どのような目つきで、どのような手の動きで、どんな話をしながら、オイルを塗っているのか、人に気づかれることなく好奇心丸出しで観察することができる。のぞき見が公に許されているような感覚だ。服をまとっていない体(といっても水着は着用しているのだが)を見るのも勉強になる。年齢を重ねるにつれ、脂肪や筋肉が垂れ下がってくるのがよく分かる。だからなのか、中高年の女性たちは、自転車に乗る人が着るユニフォームのような、肌にピタッと吸い付くようなナイロンの水着というか運動着を着ていた。重力への抵抗か。と、垂れ下がる時期にきているので、自分の外見にはこれまで以上に注意しなくては、と身が引き締まる思いを体験できる、などなど。

今年の夏は、しかし、読書に集中することもいつものビーチ観察もできなかった。ある家族の光景に強く心を奪われたからである。

それは3人家族だった。父と母と息子。息子は眼球が突出しており、なにも言葉を発さず、その容貌と行動から、多分障碍(病気?)をもった子どもと推察した。バイオリニスト高島ちさ子の姉と同じような障碍だと思う。

高島ちさ子の両親はテレビ番組でその姉についてこう語っていた。「ふつう、こういう姉がいると、子どもは友達を家に連れてきたとき、「お姉ちゃん、隠して!」と言うことがあると思うんです。でも家の子どもはそんなこと言ったことがなかった。それどころか、友達に家の外で会うときも姉を連れて行って、友達と姉と自分たちとで楽しんでいた。それがなによりの幸せでした。」

高島ちさ子の両親の言葉から伺えるのは、「こういう」子どもがいたら、世間から隠したいという心がはたらくのが一般的だということだと思う。高島家は一般に絡め取られなかった素晴らしい家族である。

ビーチの3人家族はひっそりとしていた。でもそれは、目立つのを嫌がって他の人たちから距離をとり、孤立しようとしているせいだからではないように思えた。息子が話さないから、両親も話さなかったように見えた。息子が話さなかったというのは、通常私たちが知っているところの「話す」という行為をしなかったということである。だから、両親も息子に応じて「話す」ことをしなかったのだ。通常の世界に身を置いている両親は、コミュニケーションにおいては「話す」ことが重要だということをよく知っているはずである。それでも、「話す」ことがコミュニケーションの全てではない、と感得していたのだ。

では、なぜ、その家族はひっそりとしていたのだろうか。それは、父と母が息子の「声」になってない声を聞いていたからだと思う。息子のひとつひとつの動作が声と聞こえる感受性を両親は自分たちで育ててきたのだろうと思う。両親はそうやって息子とコミュニケーションをとっていたのである。

人の「声」や声を聞くことができるという感受性からは、「異なる声」が聞こえてくる。それは、通常のコミュニケーションの中では聞こえ難いものである。だから、この家族のコミュニケーションは静寂と見えたのであり、しかし実は、両親は「異なる声」を発していたのである。高島家の子どもが姉を自慢していたのと同質の「異なる声」である。

私たちの多くは、この「異なる声」を無視したり、無駄だと考えたり、徴のあるものだと思ったりしがちである。件のビーチでは、この3人家族は多分、障碍の子どもがいる家族で「かわいそう」と思われていたかもしれない。でも、それは勘違いというものだ。この家族は私たちの多くとは異なるやり方でコミュニケーションをとっていたのであり、「かわいそう」なことはなにもない。「かわいそう」だとすれば、家族の「異なる声」が聞き届けられなかったかもしれないことである。