異なる声 (10)

アメリカの都市部の黒人ゲットーを想像してみよう。そこには、暴力とか貧困とか家族崩壊とか最底辺の生とかを多くの人が想像することだろうと思う。しかし、そういう一面があることは否めないにしても、異なる角度から見てみると、黒人家族同士が相互扶助している光景が見られなくもない。そして、多くの場合、この相互扶助が黒人ゲットーの暴走を食い止めている。すくなくとも、いかに暴力や混乱に満ちていても、相互扶助が最低限のところで生を確保していると言えるかもしれないのである。

このように、異なる角度から物事を見てみると、見えてなかったものが見えてくる。しかし、これができそうでできない。おかげで、女性は随分と長い間、理性的行動や話が出来ないと思われてきた。何か事が起きると、感情的・情緒不安定になり、混乱し、筋が通らないことを話し出すという風に。今でもそうで思われているふしがある。

はたして、女性はそのようにヒステリックなのだろうか。違う、と言ったのがギリガンだった。彼女はインタビューを通して、女性が異なる思考のもと行動し話しているのではないかと推察したのである。見えなかったものを見たのである。

では、女性が違う論理で動くということがこれまでどうして見えていなかったのだろうか。理由は、発達心理学のモデルが、男性が価値を置く基準をもとに形成されていたからだ。このドミナントなモデルのもとでは女性が重視する価値は価値そのものを失う。つまるところ、女性の声は聞こえなくなってしまう。その一言に尽きる。そして、これは画期的発見だった。

そういう指摘って、フェミニズムがここ数十年やってきたことだから、聞き飽きたって?そういう人にはもう一度、次のことを考えてもらいたい。

フェミニズムが登場して以来、社会は女性に何を期待し、そしてそのために何を賦与してきただろう。

何よりも先に、社会は女性に自律を求めた。自分が立てた規範のもと行動し、外部の制約に拘束されない生き方だ。そういった自律的生き方をするには、自立が前提条件となる。自分一人でも生きていけるように、精神的・経済的自立が必須となるのである。自分一人でも考えていけるようになりなさい。人に依存したり指図されたりしないためには、足下から固めていきなさい。そのためには、まず、経済的に一人でも生きていけるように働きなさい。社会はそのために法整備を行います。女性の権利を保障していきます。

大変簡略化して細かいところを見ていないという批判を敢えて承知の上で言うと、フェミニズムが女性に求めたものというのは、それによって社会が女性に賦与したものというのは、女性が一人でも生きていけるようにということであり、その支援であった、と総括できる。そうやって初めて、女性は男性と平等に生きていけるのである。キーワードは自律、自立、正義、権利等である。

フェミニズムや社会によるこういう女性に対する支援は否定することはできない。この記事の中でも書いたように、これらの支援は女性に利することはあっても不利に働くということはないように思われる。

だが、改めて考えてみよう。自律、自立、正義、権利等は、実は男性型発達心理学を形成していた主要概念ではなかったか。これらの概念は、自律し、他人に依存することなく、普遍的法に従っていきていけるかどうかが人間発達の指標となるというドミナントな発達モデルを形成して、そのために女性の声を排除していたのではなかったか。孤立する人間を基本モデルとしていたのではなかったか。

フェミニズムや社会が、女性が一人でも生きていけるような支援作りとして必要とした概念が、実は女性のもつ特性を殺してしまっていたということはないだろうか。

女性は個として生きていくというよりも、誰か他の人とのつながりのなかで生きていくことを良しとする。他の人への配慮をもととして物事を考え、進めていくのだ。もちろん、フェミニズムから学んだこともある。他の人への配慮のみではなく、自分への配慮も怠ってはいけないということである。そうしないと、自己犠牲の海の中に溺れてしまい、自分がどういう方向に向いているのかが分からなくなっていき、結局のところ大切にしていた他の人との関係性も壊してしまいかねないからである。自分も大切にしなければならない。同時に他の人との親密さも大切なものなのだ。

ギリガンの言葉を借りて女性の望む心の発達をまとめてみよう。

「(人の心の)発達を観察する際の見方を、個人の自己実現からケア(配慮)の関係性へと転じると、女性は継続する親密さ(の中に生きること)が成熟へと繋がる道だと表現する。」(170)

フェミニズムが提案する女性のための支援を否定することはできない。しかし、このように、女性は男性とは異なる声で話していることも忘れてはならないのだ。

この女性の異なる声。これまでどのように捉えられてきたのだろうか。これは保持していくべきものなのだろうか、捨て去るべきものだろうか。保持していくべきなら、どのように展開していく性格を持っているのだろうか。捨て去るべきなら、何故そうしなければならないのだろうか。関連するだろう本を数冊購入した。読んで考えてみようと思う。

異なる声 (9)

自己犠牲は女性の美徳であると長い間考えられてきたし、今もそう思われている。私も美徳だと思う。例えば、家族の誰もが自分の事ばかりに関心をもち、家族全体のためにやるべき事をしない場合を想定してみよう。こんな場合、料理や洗濯や掃除や育児や介護を誰がやりたいだろうか。自分を優先したいのに。皆がそう考えているとき、自分の事を後回しにして、家族のために家事をやるのが女性である。彼女たちは黙々と動き働き、家族のための夕食を準備する。仕事後疲れていても、どうして私がやらなければならないのかと考えても、家族を優先するのである。人のために、その人を思って、自己を犠牲にしてまで何かを行う。やって当然だと周囲から思われていることを、様々な葛藤を抱きながらも、それでも人のために尽くす。小倉千加子はこのような無私の態度を褒め称えた。私もまたそのような女性に敬意を払いたい。そして、無私のなかで彼女たちが発しているかもしれない、人には聞こえない声を聞いてみたいと思うのである。

ところが、この自己犠牲、女性の権利が要求され始めると美徳であることを否定される。1848年、ニューヨークのセネカ・フォールズでの大会でエリザベス・スタントンは自己犠牲について次のように述べる。「自己の発展こそが自己犠牲よりも(女性にとって)より高い義務である。女性の自己発展を妨げ、その障害となるのが自己犠牲である。」(129)自己犠牲の否定の背景には女性の権利を要求する声があった。セネカ・フォールズでの宣言によれば、「全ての男性と女性は平等に生まれついており、私たちは神から誰からも奪われることのない権利を賦与されている。この権利には人生、自由、幸福の追求への権利が含まれている。」(128)男女は平等なのに、女性だけが自己を犠牲にするなんて、それは自分を奴隷化しているだけだ。いや、社会が女性に自己犠牲を強いているとも言える。そうやって女性の奴隷化を認め、進めることで、男性による女性支配を助長しているのだ。そんな社会で、女性はどれだけ苦渋をなめてきたか。女性はどれだけ自由への芽を摘まれてきたか。女性はどれだけ不幸だったか。女性はそのような弱者の位置に留まってはいけない。女性も男性と同じように自分を伸ばしていって、それによって社会全体の善に貢献できる。女性の権利の擁護者はこう力説する。

女性の自己犠牲は、このように当の女性によって持ち上げられたり否定されたりする不思議な行為である。例えば、専業主婦を擁護するときも専業主婦を批判するときも、取り上げられる行為である。女性の権利が要求されて久しくなってからも、いまだにこの自己犠牲は否定され尽くされていない。フェミニズムがこれほど社会に浸透し、フェミニズムはその使命を終えたと言われてなお、生き延びる自己犠牲。あるいは、生き延びる(自己犠牲を美徳と考えるタイプの)専業主婦。

女性の権利の要求は、自己犠牲が女性にとって不利であると説く。そうであるならば、何故、そのことを女性に納得させることができなかったのか。ギリガンはその謎をこう説明する。女性の権利と女性の自己犠牲は、当の女性にとって相互排他的関係かつ競争的関係にあるのではない。だから、肯定するとかしないとか、そういう問題ではない。女性の権利の要求が女性の耳に届かなかったというのは、正確に言えば、それは女性の自己犠牲と葛藤を起こすものの、だからといって捨て置かれるものでもなく、女性の自己犠牲の中身を変容させるものとして受容されたからだと。どういうことだろうか。

まず、第一段階においては、女性の権利と女性の自己犠牲は相互排他的関係に置かれる。社会正義を女性にも公平に分配してもらいたい(男女平等)という女性の権利の要求は、女性が他人に配慮する自己犠牲とは相容れない。ギリガンの観察によると、フェミニズムの恩恵を受けた女性が自己主張をしたとする。それ自体は納得のいく行為である。フェミニズムは女性が個として主張したいことを言葉にするのを肯定する。ところが、女性は、自己主張をすればするほど、自分が利己的に思えてならないというのである。それは、自分が自己主張することによって、人を傷つけたり、関係性を壊してしまうことを危惧するからである。ギリガンがインタビューした女性の一人はこう述べる。「人に対する責任はこういうことだと思うの。他の人に対して配慮し、その人のニーズに対して敏感であること。その人のニーズは自分のニーズの一部と考えるから敏感にならざるを得ないの。だって私たちは他人に依存してもいるでしょう?」この女性の観点から考えると、自己主張は人への配慮という責任と衝突する。個人の権利と人への責任は相容れない。

と、まず女性は考えるというのだ。しかし、フェミニズムの影響力はやはり大きく、この相互排他的関係を変容させることとなる。ギリガンがインタビューした女性たちもまたフェミニズムから学んでいた。何を。個の主張をである。女性たちは人の声に耳を傾けることを良しとした。しかしそれだけをしていては、自分の主張の行き場がない。個の主張を肯定するフェミニズムを知った後では、自分を主張していきたいという気持ちを抑えることはできない。人への責任感だけではこの袋小路は決して解消されない。

袋小路を解決したのが他ならぬフェミニズムであった。フェミニズムにならって女性たちは個の主張を求め始めたのである。だが、異分子に全面的に頼るということはしない。何をしたかというと、彼女たちは、個の主張を従来の責任の倫理へと組み込んだのである。つまり、人への責任だけではなく、自分に対しても責任をもてばいいのではないか。人への責任と自分への責任が葛藤する場合もあろう。そのときに、関係がどうなっているのか、自分は関係の中のどこに位置するのか、そういうことを考えて判断を下すことは可能ではないか。

極めて微妙な取り込み方である。それには理由がある。インタビューされた女性たちによれば、フェミニズムはまるで正しい答えは一つしかないような主張をする。でも、と彼女たちは考える。関係の中では答えは一様ではない。絶対的に正しい答えなどなく、状況に応じて答えは変化するのだ。フェミニズムは個を中心に問題を構成するため、このような関係性の問題に対処できない。これがフェミニズムの弱点であり限界である。

フェミニズムから学ぶ点は多い。だが、フェミニズムは絶対的ではない。それは、フェミニズムが個を中心として物事を思考、実践するからだ。しかし、私たちは個だけで生きているのではない。関係性という社会的状況にも置かれているのであり、この「人間の経験」(147)に付随するもうひとつの面を見失うことはできない。自己主張を通したいときがあっても、この、もう一つの「人間の経験」を無視することはできない。私たちは確認したい。個と人は異なってはいても繋がっているのであり、けっして互いが孤立して、個としてだけで存在しているのではない。

女性たちは、こうやって、女性の権利と女性の自己犠牲の関係を組み替えていった。女性の権利から女性たちは学んだが、それがゴールではないということも確認したようだ。

異なる声 (8)

女性が子供を産む、産まないを決める。いわゆる女性はリプロダクティブ・ライツをもつとされている。女性という個人が、産む、産まないを決定する権利を有しているということだ。

だからといって、リプロダクティブ・ライツが普遍的な権利である、と言うことは出来ない。リプロダクティブ・ライツは、女性が男性と平等であるためには欠かせない権利として、女性が自分の生を自分で拓くことができるために必要なものとして、歴史的に登場してきたものである。フェミニズムという学問の中で、大切に育てられ、そしてフェミニズムに支えられながら実生活の中で獲得されてきたものである。国家や男性に管理されてきた命の再生産は、これからは「私」が決めると。

しかし、本当に「私」が決めているのだろうか。リプロダクティブ・ライツはフェミニズムという学問の中にあってこそ優勢な考え方ではないだろうか。一般の女性もそう考えているのだろうか。

そのような疑問をはさんだのがギリガンの観察結果である。これまで、ギリガンは観察の結果から、道徳問題を解決する際に、女性は個を中心として考えるのではなく、関係性に軸足を置いて考えるのではないかという推論を立てている。となれば、女性が子供を産む、産まないを決定する際も関係性が重視されるのではないか、と思われるのである。なんと、女性による、女性のためのリプロダクティブ・ライツの否定である。

実際、ギリガンは道徳問題の一つとして中絶問題を扱っている。これから中絶しようかどうか迷っている女性たちにインタビューをし、彼女たちの心理状態を表に出そうとする。このインタビューをもとに彼女たちの心理状態を忠実に読んでいくと、彼女たちは決して自分の判断だけで決定を下してはいない。彼女たちは、自分の家族、夫やボーイフレンド、生まれてくるかもしれない子供の声を聞く。自分たちの経済状態、学校生活、仕事の声を聞く。自分の声を中心にするのではなく、それを多様な異なる声の一つと考え、文字通り重層的に産む、産まないを決定していくのである。「私」が決定因子となることはない。

一人の女性の決定過程を見てみよう。彼女は、「責任(自分、自分の周りの人、自分の環境への責任)の問題」よりも「個人の権利」を重視する人々を批判する。なぜなら、中絶問題は様々な感情が絡み合った問題であって、「ヒエラルキー化された信念」に基づいて決定を下すにはその「信念」は血が通っていないというのだ。彼女はこう言う。

「たしかにヒエラルキー化された信念だけを見るなら、これらの信念は良いものだと思う。でも、自分の決定に使おうものなら、ヒエラルキー化された信念というのはボロボロに崩れてしまうの。結局は、実生活の決定に対応できるようにはできていないのね。それに、責任を考える余地をこれらの信念は与えていないし。」(p126)

ヒエラルキー化された信念」というのは色々な権利の序列化のことであり、リプロダクティブ・ライツもその中に入っていよう。彼女が批判するのは、これらの権利が責任について考える余地を与えないということなのである。つまり、権利は関係性を排除したかたちで、個人を基礎として立てられたものであると。どうして、そのような権利に頼ることができるだろうか、私の人生の一番大切な時に。私の人生は私だけで成り立ってはいないのに。

権利は必要である。でも、どうしても権利だけでは解決できない問題があり、それらの問題の多くを女性は抱えている。なぜなら、女性は、権利が構成される過程とは異なる過程で問題を構成するからである。

リプロダクティブ・ライツは女性のための権利である。が、当の女性にとっては役立たずのようである。リプロダクティブ・ライツは公共圏の論理に沿ったものであって、責任や関係性が絡まり合う親密圏を足場にする女性にとっては縁遠いものとして映るのかもしれない。

えっ、本当にそうなの? 女性のための権利を女性が否定することってあるの? 私自身も半信半疑である。さあ、この問題をさらに深めて議論している第5章「女性の権利と女性の判断」を読んでみよう。

異なる声 (7)

道徳問題を扱う際に、男性は普遍的な規則を参照するが、女性は他の人との関係性を重視するというのがギリガンが観察から得た知見であった。こう書くと、それは男女の本質主義に繋がるという、前回紹介した上野千鶴子がもつ批判に曝されることになるかもしれないけれど、この論考では、そのような批判をするもう少し前に遡ってみたいと思う。つまり、本質主義という一辺倒の批判をする前に、今現在男女の道徳問題判断の方法が違うのであるから、この違いを検討することで、別の地点に着地できるのではないかと考えるのである。

道徳問題を解決する時の男女の差異を考えてみると、ひとつ疑問が出てくる。男性はあくまでも法に照らして、個で問題を解決しようとする。他の人がどう考えているかとかはあまり考慮しない。冷徹なのである。ところが、女性は関係性を重視し、他の人のことを考えて結論を出すため、個にあまり重きを置いていないように思われる。「あの人のことを考えるとこうは出来ない」などと言って、心乱れる。かように、個をめぐる考え方、言い換えれば、人と繋がるかどうか、という点で男女は思いきり異なるのである。

何故、私が個から問題を提起しようとしているかというと、発達心理学では、これまで個の確立が重要視されてきたからで、ギリガンが指摘するように、それは男性に傾いた見方ではないかと思うのである。というか、その見方では女性は不利な立場に置かれてしまう。それでいいのだろうか。

男性の発達心理学者コールバーグによる「心の発達の規範」がギリガンによって紹介されているので、それをまとめてみよう。

コールバーグは心の発達を、道徳問題をいかに解決していくかという設定のもとに、三段階に分けている。最初の段階は前慣習的と呼ばれる。この段階では、道徳問題が個人の欲望や必要に応じて構成され、判断は結局のところ自己中心的となる。個人に利するように問題構成するのだから身勝手な判断がでるのは当然のことである。次の第二段階(慣習的)になると、この自己中心的な判断は却下される。何故なら、関係性、集団、コミュニティー、社会を形成する規範や価値観が判断の基準とされるからである。社会性を身につけるのである。ここで終わりかと思いきやそうではない。個人は、さらに第三段階(ポスト慣習的)に入る。慣習は完全ではない。慣習には瑕疵があるのであり、この段階おいて個人はそれを認識し、さらには、その瑕疵を超える普遍的な法に照らして判断を下すというのである。

コールバーグの理論を図式化すると、個人から出発し、個人対慣習、個人対普遍的法というように、個が一貫して判断基準の要となっている。最高段階に達すると、自分の欲望や他の人への配慮や地域の靱帯となっている慣習などは普遍的法の下に置かれ、顧みられることはない。強靱な個の確立が心の発達の確たる目標として据えられている。

コールバーグの理論が普遍化されると、女性の心の発達は未熟なものとなってしまう。というのも、女性による道徳問題の構成は、他の人との関係性のなかでその人に対してどう配慮するのか、その人にどう責任を持つのか、という設定のもとで行われるからだ。

だからといって女性が個を持っていないというのではない。女性も自分の欲望や必要を優先することから道徳問題を解決しようとする。そしてコールバーグが指摘するように、この「〜したい」という欲望による判断が慣習的判断「〜しなければならない」へと移行もする。しかし、女性の場合、ここで問題が生じるのである。慣習に準じるということは、慣習が求める女性のあり方を受け入れることでもある。ギリガンが指摘するとおり、女性は自分より他人を優先することを社会から求められてきて、それが善とされてきた(いる)。一方、女性も関係性を重要視する。社会の要請と自分の志向の一致である。が、事はそううまくはいかない。要請と志向が絡み合えば絡み合うほど、女性は悩むことが分かったのである。つまり、関係性を重視すればするほど、女性は個が消え去るように思え、個を主張したくなる。社会の要請と自分の志向の一致により、社会からの圧力を受けたまま自分の志向への問いかけもしなければならないため、どうしても個はどうあるべきかという問題が二重にせり上がってくるのである。しかし、女性は省みる。個を主張すれば、関係性が綻びてしまうかもしれない。それはなんとしても避けたい。だって、関係性を維持していくことは私にとって大切なことだから。社会の要請とは離れて、自分の志向を大切にしたいという気持ちが込められているのが分かる。こうやって、女性は、個と関係性との矛盾を抱え込むこととなる。

女性にとって、個と関係性の矛盾の解決が第三段階目の判断になる。えっ、普遍的法の遵守へとは向かわないのか、だって?それは、極めて困難だ。何度も言っているように女性は関係性を重視する。関係性を重視するということは、その関係性における具体的なことを考慮しないといけないということである。関係性は具体的なことでいかようにも変化し、そのように変化する可能性もひっくるめて、女性は関係性を重視する。具体性を関係性と同等に捉えるのである。が、普遍的法においてはこの具体性はその下位に置かれる。普遍的法が絶対的であるために具体性で普遍的法が変わるということはないのである。

では、個と関係性の矛盾を女性はどのように解決するのだろうか。キーとなる考え方は「傷つける」である。関係性を重視するために、女性は他の人を傷つけることを良しとしない。他の人については配慮する分にはその人を傷つけることはない。が、その配慮するために個を消していたら自分を傷つけることになる。一方、個を主張をすれば、他の人を傷つける恐れがある。両者を傷つけない方法はないものか女性は考える。

個と他の人の欲望や必要を葛藤させることなく包含する関係性の模索。この模索のなかで、女性はまず自分の選択に対して正直であることを求める。それはとりもなおさず、個に対して責任をもつということでもある。それと同時に他の人に対してもその人の選択に対して配慮する、すなわち、責任を持つ。二つの責任は葛藤するときもあろう。だが、そうであっても、葛藤を解決できるような方法で二つの責任を果たすことができるのではないか、女性はそう考える。女性にとっての道徳問題に対する判断の方法は、この葛藤を具体的な状況のなかでどう解決するかということなのである。だから、コールバーグが提案するような絶対的な普遍的法などは存在しない。女性が求めるのは、極めて状況具体的な解決策なのである。

女性の道徳問題への判断の下し方が上のようであれば、従来の心の発達モデルにそぐわないことになる。そのモデルが規範として採用されるのであれば、女性は第二段階あたりで「挫折」すると位置づけられる。

こういう風に導き出された「挫折」をどう考えるか、とギリガンは読者に問う。女性が問題なのか、それとも女性の心の発達を「挫折」すると導く心の発達モデルに問題があるのか。ギリガンはフィールドワークの結果から、次のように主張する。フィールドワークで得られた知見は従来の心の発達のモデルと合致しない。だからといって、女性を成熟していないということはできない。彼女たちは異なる判断基準で道徳問題に対処しているのだから。となれば、コールバーグが立てたモデルは、この異なる声を排除することで成立していると考えられないか。従来の心の発達モデルは男性型なのではないか。そうであるならば、女性をそのモデルで判断することは筋違いだろう。女性には女性の世界観があるのだから、と。

ここで、それに付け加えて、次の二点だけは押さえておくべきだろう。まず、第一には、個を軸にして理論を形成することの妥当性を再考する必要があること。言い換えれば、私たちは関係性の中で生きているのだから、個を中心に物事を判断していってもいいのか、と常に我が身を省みなくてはならないということである。第二には、コールバーグが提案する心の発達モデルをフェミニズムもその理論を形成するにあたって参考にしていないかということである。フェミニズムも我が身を省みる必要があると思われる。

結婚しなくてもいい (3)

「それでも、生きていく」(フジテレビ)は、殺人の被害者家族と加害者家族の心の行き交いを描いたドラマである。なかでも、妹を殺された兄の瑛太と、少年であった殺人犯の兄をもつ妹・満島ひかりとの恋愛へと発展していく交流が中心を占め、秀逸。展開具合が一昔前の純愛ドラマ風なのが凡庸でいい。互いに不器用に話をしていくうちに次第と心が開かれあう。その開かれようが恋愛というかたちをとり、果たしてこの恋愛は被害者家族と加害者家族の間に深く横たわる溝を乗り越えられるのか、という風にね。二人は結ばれるのか(結婚するのか)という期待を視聴者にもたせ、慣性の法則により、視聴者は純愛ものとしてドラマを見ることに。視聴者の期待を外すことはない。

と思っていたら、ドラマは最後で視聴者の期待をあっさり裏切る。二人が恋愛感情をもっていなかったというのではない。恋愛感情はもっている。ただ、純愛ドラマに発展すべき、苦難を乗り越えての結婚というのが達成されないのである。

瑛太は結婚を前提としての恋愛に未練があるようだが、満島ひかりはそれをあっさり否定する。彼女は、自分の兄がまたしても起こした殺傷事件で、被害者を植物人間にしてしまって、その被害者の幼児が自分になついていくものだから、母親の代わりにというか、その子の母親になるから、という理由で、瑛太のプロポーズらしきものを断るのである。植物人間になった女の意識は多分戻らないだろうから、満島ひかりはその子の母親で一生あり続けるだろう。幼児が思春期を経て、大人へと大きくなっていくにつれ、その子から非難・罵倒が浴びせられることになるかもしれないし、そうではなくて、反って母親二人を持つ幸せをその子は持つかもしれない。未来はどうなるか予測不可能である。満島ひかりは、その予測不可能性とういう可能性に身を投じる。

満島ひかりが幼児の母親となるからといって、瑛太との交流が途絶えることはない。実際、二人は手紙でやりとりをしているし、今後会ったりすることも、セックスしたりすることもあるかもしれない。ただ、満島ひかりは恋愛とは離れたところで家族を形成することに自分の生を賭けているのである。

結婚しないことが出来る。でも家族は作ることが出来る。満島ひかりはそのような(今の社会では不可能かもしれない)可能性を伝えているような気がしてならない。

と、昨年のドラマや映画は、どうも女の生き方に関心があったようです。男性はといえば忘れ去られている。というか、男性にはあまり変化が期待できそうもないのですね。あるとすれば、男性はこの不況下ますます社畜化してくるってことでしょうか。しがみついた生き方っていうか。シャレにならない。それに比べて、女は不可能かもしれないとういうことに可能性を見い出しています。したがって、今年は、結婚しないことが出来る、でも家族は欲しい、という女の生き方がどう展開していくかに注目すべきでしょう。

結婚しなくてもいい (2)

結婚しなくてもいい。まるで、人々は結婚という社会制度から解放されて、何か別の可能性へと開かれつつあるようである。そして、敢えて言語化するとすれば、その可能性のひとつが、血縁を下敷きとしない家族を想像していくことだったと言える。

角田光代が「八日目の蝉」(中央公論新社)を書いたのが2007年。それから4年後の昨年、「八日目の蝉」がドラマ化(NHK)され、映画化もされた。

本作品は読者に微妙な罪悪感を植え付ける。女主人公は妻帯者の男と不倫をし、子供を身ごもる。面倒を抱えたくない男は、結婚できるまではどうか子供を諦めてくれといって、嫌がる女に中絶させる。物語はここから始まる。たまたま、同時期にその男の妻も妊娠し、こちらは制度上正当化できることなので、出産する。で、じっとしていられないのが女だ。自分が欲しかったものを他人が持っているのであれば、その他人のものを持ちたいと願うのは当然のことだからだ。ただ、女の場合は違った。普通は、願うことだけで終わるのだが、女はその願いを実現してしまったのである。つまり、赤ちゃんを誘拐した。

誘拐後、女は誰からも悟られないように、赤ちゃんを育てていく。女が赤ちゃんに注ぐ愛情は、読んでいて感動せざるを得ないほどに、深くて暖かい。私にもかつてこういうことが起きたのだろうか、と覚えていない記憶を呼び起こさせるようなほど強い感情だ。血が繋がっていなくても、これほどの愛情を持つことができるのかと、読者は感嘆せざるを得ないし、またそういう女に一度でいいからなってみたいと思う。誘拐犯に読者を同一化させるのが、本書の特徴である。

女にとって結婚はどうでもいいことである。彼女の関心は、ただ、赤ちゃんと過ごすことだけだ。子育てが生きることと同調している。その後、偶然の出来事から、女は逮捕され、赤ちゃんは親に引き取られるのだが、だからといって、女が赤ちゃんと過ごした4年間が否定されるわけではない。思い出として封印されるのでもない。そうではなく、その4年間はその後の人生とともにある、いつまでも現在形で存在する、フロイトがいうところの無意識の位相と同じ場を占めるのである。

読者は、読みながら、結婚のことは全く忘れ去り、ただこの「親子」が捕まらずに生きていければと願う。その反社会的願いは、血縁がなくても家族を形成できること、これまでは理論的には分かっていたことだがそれでも実感としては掴みどころのないことを、初めて納得のいくかたちで認識したことの喜びの置換である。

結婚してもしなくてもいい。結婚はもはや人々の心を悩ませる問題ではない。関心は、家族をもてるか否かに移行しているのである。となれば、子を産む女の身体や家族の形態が焦点化されるのは、もっともなことだろう。この問題を取り上げたのが、これまた昨年話題をさらった、フジテレビ制作の「それでも、生きていく」である。

結婚しなくてもいい (1)

2011年12月17日の朝日新聞夕刊は、昨年放送されたドラマを回顧している。それによれば、昨年のドラマは「絆を問う再生の物語」に集約出来るという。記事いわく、「震災以来、「絆」という言葉がどれほど語られたか。各局が心血を注ぐ震災ドキュメンタリーに限らない。ドラマでも、絆の最小単位である家族が関心を集めたことはうなずける。」

「最小単位である家族が関心を集めた」という指摘には大きく賛成する。しかし、この家族への関心を「絆」に結びつけるのには納得いかない。震災は、確かに被災地の家族に影響を与えた。死別、別居と、被災地の家族はこれまでにない経験を生き抜いていかなければならない。その過程で、被災地の人々のみでなく日本の多くの人々が、家族について認識を新たにすることは多々あることだろうと思う。しかし、その認識は「絆」のみで説明できるものではない。精神的なことだけで片付く問題ではない。今住む住居ついて、生活を成立させるに必要な経済的活動について、家族の健康について、子供の教育についてなど、様々な観点から、家族は捉え直されているはずだからだ。「絆」のみを論点化するのは片手落ちというものだろう。

昨年のドラマは「絆」「再生」をめぐるものではない。昨年のドラマが、家族を扱ったのは、もっと別の理由による。震災が起こったからといって、震災がただちに人々の精神活動に影響を与えるわけではない。かならずしや、タイムラグがあるはずだ。私たちは数年後の精神活動の有り様を見据える必要があるのであって、震災直後のドラマにその影響をみるのは拙速としかいいようがない。

では、昨年のドラマはどうして「家族」を中心に据えたのだろうか。答えは簡単である。家族が変容しているのであり、ドラマはその変容の変奏なのである。

社会学者にして観光学者でもある妙木忍というひとがいる。彼女は2009年「女性同士の争いはなぜ起こるのか――主婦論争の誕生と終焉」(青土社)という本を上梓した。日本には、大正時代から、主婦をめぐる論争があり、妙木はその論争の論点の変化を丁寧に記述している。詳しくは同書を読んでいただきたい。ここで問題にしたいのは、妙木が挙げている最後の論争である。この最後の論争は、酒井順子の「負け犬の遠吠え」(講談社、2003年)がもたらした、いや「負け犬の遠吠え」がまとめ上げた、2000年当時の人々の結婚観を巡って起きたものだ。

妙木によると、酒井順子が見据えたのは、女性は結婚すべきなのか、結婚しなくてもいいのか、という選択肢に人々が直面しているという事実だった。専業主婦になるかならないか、というのはもはや個人レベルの趣味として片付けられていて、問題は結婚すべきかどうかに移行してしまったというのである。社会通念としての「家族」は、結婚して成立するものだから、本論争を「家族」を形成すべきか否かというレベルで考えることもできるだろう。

妙木は、本論争を最後の論争として扱った。しかし、妙木も拙速にすぎた。変化というのは止まらないという性格をもつことを失念していたのである。本論争の次に、また変化が起きることを予想していなかったのだ。ところが、その変化が、去年一挙に問題化された、というのが私の考えである。

変化の兆候はすでに2003年頃から表れていた。いや正確には、1985年頃というべきか。田辺聖子の「ジョゼと虎と魚たち」(角川文庫)が多分、変化の兆しを捉えている。と思う。というのも、その本は読んでいないからだ。原作から20年経過した、2003年、「ジョゼと虎と魚たち」は映画化された。私は、このタイムラグに注視したい。そう、機は熟したのである。

ジョゼと虎と魚たち」は、障碍者池脇千鶴と大学生の妻夫木聡との恋愛を活写したものだ。池脇も妻夫木も恋愛に関しては、ちっともウエットじゃなくて、極めてドライである。でも、そこは恋愛映画。見る者に、二人は結婚するのかなあ、と思わせるストーリー仕立てになっている。

ところがである。映画の最後になって、二人はあっさり別れてしまうのである。一応、理由らしきものは付け加えられている。池脇が障碍者であることから妻夫木が逃げてしまったと。でも、この理由はとってつけたように、映画の最後に妻夫木の心の声として表現されるだけであって、別れる理由としては説得力がない。現に、妻夫木は早速元カノとよりを戻すし、池脇は別れた後も後腐れ無く車いすで颯爽と街の中に入っていく。二人とも関心は次へと移っているのである。

映画は障碍者を恋人とした大学生の物語である。障碍者を親に紹介するかどうかで迷う大学生の物語である。結婚するかしないか、もっと悩んでもいいだろうと思う。酒井順子が感知した結婚という選択肢を下敷きにして見れば。が、映画はそういう方向を全然向いていない。二人にとって、恋愛を楽しんでも、結婚はしなくてもいいのである。結婚すべきか否かという選択肢自体がまるで消滅したかのようである。

結婚しなくてもいい。結婚しなくても、互いに行き交いは出来るし、心の交流だって出来る。どうして、結婚しなくてはならないのか。結婚しなくてもいいのではないか。

つまり、結婚は人生の選択肢としては存在しなくなりつつあるのである。酒井順子がすくい上げた論点は無くなった。結婚しなくてもやっていけるし、願えば、家族だって結婚なしでもつことが出来る。昨年のドラマは、このことだけを言ってきたのである。